努力の人
- 作者: 山里亮太
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 2006/11/01
- メディア: 新書
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南海キャンディーズ山ちゃん、その努力の軌跡。
自らタイトルで告白している通り、芸人として決して天才肌ではないことがよく分かる。
文中に現れているのは、むしろ真面目で、まっとうで、調子にも乗りやすいけど基本的には自信が無くて・・・な極々普通の青年の姿。
そんな彼が努力と工夫を重ねて、生き馬の目を抜く(のであろう)芸能界でもがき働いている姿は、”普通の"サラリーパーソンにも勇気を与えてくれるのではないだろうか。
もともと山ちゃんの語彙のセンスが好きだったけれど、今後はまた違った目でテレビの中の山ちゃんを応援できそう。願わくばまた南キャンの漫才が見たいなー。
認知療法
- 作者: 高橋祥友
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2006/07/20
- メディア: 新書
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うつ病に対する心理療法の一つとして認知療法に触れている部分が興味深かった。
認知療法の目標は次のような点である。
1.現在の問題に関係する認知を探る。
(認知とは、ある人物が周囲の世界を、その人独自の方法でとらえる様式のことである)
2.認知、感情、行為の間の独特な関係を認識する。
3.重要な確信を支持または反論するような事実を検証する。
4.より適応しやすいほかの選択肢を実行するように患者に働きかける。
5.最終的には、患者が自力で認知療法の過程を実施できるようになることが目標である。ベック(引用者注:精神科医のアーロン・ベック)によると、うつ病の認知理論は次の三つの概念を仮定している。すなわち、スキーマ(schema)、認知の三徴(cognitive triad)、そして認知の誤り(cognitive error)である。
認知の三徴とは、
1.自分自身に対する否定的な見方
2.自己の経験に対する否定的な解釈
3.将来に対する絶望的な見解
からなる。
すなわち、うつ病患者は、自分は欠陥だらけであり、価値のない存在であると確信している。自分の行ってきたことは全て失敗に満ちていて、現在の自分自身に対しても不当に低い評価しかできない。その結果として、未来も必ず失敗につながるとの確信を抱いている。
認知療法の過程を大きく分けると次のような段階を経ていく。
1.日常生活において、どのような状況で問題が発生したのかを特定する。
2.そしてその時にどのような感情を抱いたのかを探る。
3.認知の誤りで代表される、自動思考のパターンを検討する。
4.その中に認められた認知の歪みを治療者と患者が協力して、検討していく。
5.そのうえで、これまでよりも幅の広い他の解決手段を見出そうと試みる。
私はうつ病では無いのだけれど(概ね健康だし、「うつ病チェックリスト」的なものでも当てはまらないもののほうが多い)、「認知の三徴」の部分が自分の思考パターンとずいぶん近いことに驚いてしまった。
子どもの頃からそうなのだから、そりゃあ生き辛さを感じるわけだよなあ…。
特に、過去・現在の自分への否定的な解釈が、未来の自分の失敗への確信につながっているという指摘は重要だった。
幼い頃はまだ、「私も大人になったら変わることが出来る(そうなったら幸せな人生が待っている)」と期待することができた。
けれど20代後半、"大人"になったはずなのに根本的に全く変わっていない自分を正面から引き受けなければならなくなった頃から、日常が苦しくなった。未来が恐ろしくなった。
今のままの自分では幸せにはなれない。
自分の力で変わらなければならない。成長しなければならない。今のままでは本当にダメになってしまう。
後悔と不満ばかりの人生になってしまう。
努力しなければ。成長しなければ。変わらなければ。
無意識の内にそんな強迫観念に囚われ、しかしそんなに簡単に「デキる自分」になれるわけもなく。
"だらしない自分"を責め続ける毎日が苦しかった。
だけど私の認知は、少し歪んでいるかもしれない。
確かに自分は大して出来た人間ではないけれど、でも決定的な"ダメ人間"では、たぶん、無い。
ごくごく"普通"であるはず。
冷静な頭では分かるそれを、いかに日常の"認知"レベルで認められるようになるか。
大きな課題だけれど、一筋の光明が見えたようにも思う。
距離感
誰かと一緒にいる時間が長くなると、私はどうもその人とうまくいかなくなる。
礼儀をわきまえた完全な他人でもなく、少々の粗もひっくるめて慣れている家族でもない、それでいて生活の多くの時間を共有する人々。
彼氏であったり、あるいは職場の同僚であったりという人達と。
付き合いの長さが居心地の良さにつながるのではなく、むしろ欠点の発見だったり新鮮味の損失だったりというマイナス方向にふれる。
そういう自分があまり好きではないけれど、実際そうなのだから仕方がないのだと近頃は思う。
無理に近づき続けて決定的に破局するより、自分に許容できる距離を何とか確保していくしかないのだ。
それにしても、エッセイやドラマなどでよく見かける「友人同士の辛らつな意見のやり取り」。
世の中の仲良し達ってほんとにあんなことをお互い言い合ってるんだろうか。
「あんたそんなんだからいつまで経っても結婚できないのヨ」
「バツイチ女に言われたくないわネ」
紋切型だが、そんな"気の置けない"友人との会話が描写されているエッセイ、何度も読んだような気がするのだが
そんな関係本当にあちこちに転がってるんだろうか。
憧れはしても、自分は絶対その世界に住むことは出来ないのだと思う。
本音をぶつけ合うことが親しさの証だとは受け止められないのだ。
それがただの軽口だと分かってはいても。
秋晴れ!
いーい天気だなー!
こんな日はデート(以下略)
流行りの(もう少し前の話題かな)造顔マッサージを続けてたらだいぶ顔の肌の調子がいいので、今週から体のマッサージ(体整形マッサージ)も始めてみている。
週に一度の運動より毎日5分のマッサージ、っていうのはある程度真実のような気がする。継続は力なり。