『恋愛中毒』山本文緒



もう神様にお願いするのはやめよう。
−どうか、どうか、私。
これから先の人生、他人を愛しすぎないように。他人を愛するぐらいなら、自分自身を愛するように。


だけど、主人公・水無月は、決して他人を愛する代わりに自分を愛したり出来ないだろう。
順序が逆だ、彼女は自分を愛せないから、他人に異常なまでの愛を注ぐのだと私は思う。
そして相手から返ってくる「愛」で、やっと小さな一息をつける。かろうじて、自分の存在を認めることができる。


水無月が真性「恋愛中毒」であるとは思わない。
彼女は元夫や愛人を愛しすぎて苦しんでるんじゃない。
愛し方がわからない、愛されている安心感が得られない、自分が生きている理由がわからない。
その無力感を埋める方策を、自分の隣にいてくれる男に求めること以外思いつくことができないだけだ。


水無月は長い長い独白の中で、既に離婚した夫・藤谷のことを「夫」と呼ぶ。
夫であったはずの彼。自分を「拾ってくれた」彼。自分を見捨てることなどないと確信していた彼。
永遠と信じ、自分の人生に意味を持たせてくれるはずだった「夫」の存在が消えてなくなる。
その現実を彼女は受け入れることができない。
表面は冷静に、自分の過ちを分析しているようでいながら、結局「夫」の決断に何一つ納得していない。


水無月は哀しい期待を繰り返す。
別れて暮らす「夫」の電話を、ワンコールだけ鳴らしてすぐに切る。いつか、その「犯人」が自分であると気づいた夫がコールバックしてくるのではないかと思いながら。
けれど、水無月の期待が叶えられることはついにない。


真に自分と元夫の現状を理解しているなら、そんなこと、すぐにわかるはずなのに。
いや、わかっていてもやめられないのが彼女の病理なのだろうけれども。


水無月の無力感、飢餓感、人生に対する倦怠感。
そんな気分から自分を救う印籠としての「夫」「恋人」への期待。
その姿が1年前の自分と重なって、非常に痛かった一冊。